廃線 池田鉄道 その3 【遺構探索】

遺構探索

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 5.池田鉄道の年表

 そもそも、池田鉄道とは何だったのか、まとめの最初はそこからスタートしたいと思います。

南安曇郡誌より引用

この文献(南安曇郡誌)によると、どうやら池田鉄道は、信濃鉄道(現・大糸線)が松川を通るルートで建設されてしまったことに対する補償のような形で建設されたことがわかる。

 1925年(大正15年)9月21日に開業し、その距離は4哩(マイル)3分≒6.4キロメートルに相当するそうです。廃止は昭和13年5月のため、約15年足らずの運用だったようです。

 しかし、ここでまた興味深い名前がありました。途中駅の中に「内鎌」という表記。その代わりに、会染駅が消えています。コレはどういうことなのでしょうか。

 そもそも、内鎌とは、会染の隣の地区の名前です。

会染駅は、道の駅からみて南西側にある。
会染と内鎌の境上に位置するのだろうか。

 この地図を見た限りでは、どの範囲が内鎌で、どの範囲が会染と決められたものではありませんが、確かに内鎌というのが完全に否定できるものでもありません。

 但し、引っかかることは、そもそもこの文献は「南安曇郡誌」であり、池田町は「北安曇郡」に位置することから、池田町の識者のチェックの入らないまま発行された可能性も否定できません。または、当初は内鎌で確定していたものが会染に変更になった可能性もあります。

 結局どっちの駅名なのか、いずれ図書館等でも調べていきたいです。

6.高瀬川の橋に意外な事実?

 池田鉄道に関して、完全にそのルートが確定しているのは、安曇追分、南池田、信濃池田、北池田の4駅とその前後と高瀬川を渡る箇所と、多少田んぼ等に残る遺構のみです。それ以外の箇所については区画整理ないしは住宅開発で原型をとどめていません。

 では、どうやってルートを確認していくのか。要は「現在は」開発されてしまったのですから、「過去」の地図を見ていけばいいわけです。

 まずは高瀬川から。1977年の写真を見てみましょう。

両岸で蛇行している。若干不自然にも見える
(国土地理院より引用)

 私はこの写真を見たときに、何かの違和感を覚えました。と言うのも、両岸の道が必要以上に蛇行しているのです。道路ならまっすぐ引けばいいのに、そう思いました。

 そこでさらに戻って1947年に米軍が撮影した上空写真を見てみました、があれ?道がまっすぐになっていて、その代わりに先ほどの橋がなくなっている…?それでも何かが架かっていた形跡が見える。

場所を書き込んでみた

 今回発見できた枕木、橋脚、追分駅を位置関係であらわすとこのような形になります。鉄道と人間、車を同じ橋に通すのはあまりにも危険であるため、この両方の橋が同時期に存在していた可能性を私は提唱したいと思います。
 また、なぜ何度もこういった形で橋が換わっているかについてを考えてみました。すると、米軍が撮影した1947年から1977年の写真の間の30年間に、高瀬川が5回氾濫・洪水を起こしていたことが判明しました。そこで

 1937年 池田鉄道廃止 
 ??年 鉄道の橋が基礎を残し撤去
 1945年 終戦
 1947年 米軍の撮影
 1959年 台風7号により洪水
 1961年 梅雨前線豪雨により氾濫
 1965年 梅雨前線豪雨により氾濫(犀川決壊)
 1969年 集中豪雨により氾濫
 1970年 梅雨前線豪雨により氾濫、決壊
 ??年 以上の豪雨の影響を受け旧道 老朽化
 ??年 旧道の道路復旧のため 鉄道橋を流用
 ??年 鉄道橋を再び供用開始 旧道撤去
 1977年 仮の鉄道橋の供用中に撮影
 2000年 高瀬大橋開通 鉄道橋再び撤去

 という可能性を考えてみました。つまり、池田鉄道が走っていた橋と、その後多くの資料で載せられていた「鉄道が走っていた橋を転用」は正確に言えば同一のものではない、ということになります。現在で例えるなら、中央線の高架化工事に近いものがあります。
 このあたりは要調査になりそうです。

7.会染から信濃池田まで行こう

 ここで十日市駅の話を飛ばしてしまうことは、私としても非常に心苦しいのですが、古い航空写真をみても、高瀬川を渡ったところから会染までのルートをたどることができませんでした。そのため、ここでは会染駅からのルートを確認する体になります。

 さて、池田鉄道の廃止は先述の通り、1937から38年。それから戦争が激化していったと仮定すると、農地改革が行われる1948年前後なら、まだ鉄道の用地が残されているかもしれない。私はそう考えました。そこで、資料を探したところ、このような資料が多数発見できました。

これがどこだかお分かりだろうか
1962年の写真である

 これだけでは判別しづらいという方は、下の写真も参考にしていただけるとよりわかりやすいです。

位置関係は上の図とほぼ同じだ

 そう、南池田駅と信濃池田駅の写真です。ちなみに、南池田駅は「台湾料理 味草」の「味」の真下にある十字路に位置すると見てください。

 すると、このように見えてこないでしょうか。1962年。まだ田んぼの整理が進んでいないと考えてみると、この作物の実り具合からこういった、路盤からの転用もあったのではないかと考えられます。ちなみに、加工後ではありますが、1948年に米軍が撮影したものではこちら

 と言った形で、戦後すぐの写真を見ると、現在に比べてだいぶ路盤が残っている感じがします。こういった形で、復習をしてみると、なんだか面白い感じがしてきます。

8.見解

 安曇野盆地を駆け抜けた池田鉄道は、その寿命の短さから多くを語ることはありませんでした。その代わり、写真と写真、記録と記録の間に埋もれてしまった事実を解き明かしていくのもまた、一つの楽しみかもしれません。いずれにしても、この池田鉄道はまだまだ掘り進めがいが、ありそうです。

9.最後に

 今回訪ねた池田鉄道は、安曇追分駅からその探索を始めることができます。しかしながら、鉄道の記念碑を探しながら歩く場合には、約2時間ほどの時間が必要となります。また、大糸線の電車は時間によって本数が変わりますので、探索の際は余裕のある計画を立ててください。

 さらに、池田鉄道は廃止から時間が経っていることや、池田町教育委員会の無茶振りにより、その多くの史跡が私有地の中もしくは荒地に存在しています。他の遺構探索に加えて、私有地に勝手に立ち入ることや、危険な行為を行うことは控えてください。また、不慮の事故により負傷・死亡した場合でも、当サイトは一切の責任を負いません。

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