廃線 池田鉄道 その2 【遺構探索】

遺構探索

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4.池田町区間

 いよいよ、橋を渡りきったところから池田町へと入ることになります。最初の画像は、旧・高瀬川の接続部分を池田町の入り口(?)から撮影したものになります。かつてはここを列車が走っていった、ということです。

 さて、その1では起点の追分駅を紹介しましたが、この鉄道は安曇野市の中に途中駅はなく、最初の駅は営業キロで1.5km離れた「十日町」という地域に存在します。しかし、その1でも触れたとおり、この鉄道にはほとんど遺構が存在しませんので駅が出てくるまで、ただひたすらに道を歩くしかありません。

十日市場は十日市駅の西側に位置する

 十日市場。名前が近づいていることから、この近くに最初の駅があると思われます。鉄道はきっと私が歩いた歩道・道路を走っていたと思われます。

十日市駅の跡。何もない

 さて、十日市駅だ…ってあれ、何もない。ただ墓標のように、教育委員会が立てた木が存在するだけで、駅舎もホームもありませんでした。

 さて、次の駅は会染駅だと言うのですが、ここから先は記録によると列車はカーブしていくらしいのですが、現在その道は田んぼへと転用されて跡形もありません。仕方が無いので道路を直進し、一番そのカーブに近づけるルートを取って行くことにしました。

会染駅…?どう見ても民家です

 さて、会染駅の跡と言われるあたりについたのですが、上の画像を見ていただければ、私が一番伝えたいことがわかるかと思います。

民家に記念碑を建てるな!

 どうみても民家です。池田町教育委員会は何と言うところに記念碑を建てたんですかね。廃線探索を行う場合(道的な意味で)様々な危険が伴うことがあるとは理解していましたが、まさか民家に記念碑があるとは…これは踏み込んだら犯罪ですね。

 と言うわけで、カメラのズームで写真を撮る程度に収めました。しかし、池田鉄道の記念碑は、他のところでも微妙な位置を取ってしまいます。

柏木駅跡(現在は公民館)

 会染駅の次の駅は柏木駅(追分から4.1km)なのですが、これがまた辺鄙なところに存在し、公民館の裏手にあるのです。歩道を歩いているだけではわからないところです。本当に、池田町教育委員会のセンスを疑いたくなります(オタクからわざと隠すようにしているなら話は別ですが)。

これがその公民館。門を通った奥に駅の跡がある

 一見、この状態からでは、廃線跡も何もあったものではありません。一瞬、記念碑も何も無いのかなと思ってしまったくらいです。

この中に鉄道遺構が残っていることがお分かりいただける
だろうか

 さて、そこから1キロもしないところに南池田駅が位置するわけですが、これもまた路地裏にある関係で、大通りからは全く見えません。おかげで写真撮影も車を気にせず行えます。

 この駅の特徴は、遺構が残っていると言うことです。上の写真でお気づきの方がいらっしゃると思いますが、この石垣の特に左側の部分。下の部分が完全にホームです。石が積まれている右側とは打って変わってコンクリートです。

 最大限プライバシーに配慮してはいるのですがここまで民家に転用されてしまうと、写真もおちおちとれず、こんなものになってしまいました。本当にこの記念碑の意味って何なのか気になります。

 ちなみに、その南池田駅から次の信濃池田駅の方向を望んだ写真がこちらになります。距離にしておよそ900メートルなのですが、全くそれらしき建物はありません。路盤さえ失われてしまっているようです(きっとこの道路が路盤からの転用だとは思うのですが…)。

 さて、次はいよいよ信濃池田駅です。信濃池田にはかつて、池田鉄道の本社が置かれていました。しかしながら、単線1面1線と本社ながらに寂しい駅だったようです。

現在は所有者がいて、管理されている

 ちなみに、その1でお見せしたボードはこの駅の跡に設置されているものです。現在は所有者がいるために、これ以上立ち入ることは、あまりよろしいものではありません。しかしながら、私としても本社の姿は撮りたいために、横にある畦道を使って外から撮影することにしました。

ホームの跡地は南池田よりもはっきり残っている

 かつてはここに列車が発着していたと思うと、寂れてしまっても、何か感慨深いものがあります。

現在は木が生い茂ってしまっている

 しかしながら、木が生い茂っていたために、これ以上の探索は望めませんでした。

本社と言えど、今はただの古民家にしか見えない

 最後は、北池田駅となるわけだが、ここまで史跡が簡素にしか残されていないとなると、結局のところ私自身、信濃池田から北池田までを精一杯歩く気分にはなれませんでした。

2面2線構造のようだ

 しかしながら、この駅では興味深いことが発見できました。それはこの写真の通り、2面2線の構造をとっていると言うことです。ここでwikipediaの情報を確認すると1面1線とのこと。史跡と食い違っているようです。これについては、wikipediaの出典が不明なため確認ができませんでしたが、一ついえることは、目で見たものが正しい、と言うことでしょう。

 それでは、ここまで来たところで、次回は考察をしていきたいと思います。それでは次回もお楽しみに。

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