廃旅館 新川 その3 【遺構探索】

遺構探索

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4.お詫び

 その2で「果たして新川と読むのか」という内容を書いたにも関わらず、こんなタイトルをつけてしまうことが私自身、情けないのですが、あの字の読み方も確定できないので、この記事でも「新川」が旅館名であるという前提で話を進めていきたいと思います。

5.旅館 新川はいつ建設されたのか

 「新川」が建立されたのは、1970年代前半から中頃にかけての数年の間だと推測できます。というのも、国土地理院の地図で確認したところ、カラー写真になった1971年以降の写真で最初に確認できたのは1975年(昭和50年)の大百池周辺の地図であるためです。それ以前の写真でも、候補地である箇所は見つかるのですが、最初の写真でもお分かりの通り、木と竹が生い茂っているために「新川」の全貌が確認できないからです。

この左に写っているものが「新川」とみられる建造物
(国土地理院より引用)

 この前後(1970年、1981年)の周辺地図だと、この区域の土地、建物が空き地、あるいは消失しているかさえも判明しません。ただし、ここで「新川」が三階建てかつ屋上が存在したことを踏まえると、見晴らしを良くする為に屋上を覆っていた木を伐採した可能性は否定できません。とすると、この年に確認できた理由は、竹が全て枯れたか、人為的理由により伐採されたかのいずれかになると考えられれます。

6.宿泊客はどれくらいだったのか

大宴会ができた…ようにはお世辞にも見えない

 宿泊客の人数までは完全に把握できないものの、その間取りからおおよそを察することは可能でしょう。この旅館は、その1、その2でもお伝えしましたように、非常にこぢんまりとしたつくりになっています。それ故に、大勢が宿泊、または大宴会を開くことは不可能だった、とみられます。また、厨房がどこに存在したか不明なため、1階部分も客間だったと考えた場合、宿泊可能なのは1階と2階。繁盛していたかまでは不明です。個人経営だったと見て間違いはないでしょう。

7.火災はいつ、どこで起きたのか

 火災が起きた時期までは特定することは、執筆段階ではできませんでした。また、建物自体の損傷もひどく、間取りを確認することも安全上行えなかったため、1階部分から火の手があがったかさえも確認はできませんでした。ただ、そのことから1つ考えられることは、この火災が放火だった可能性です。あくまでも可能性にしかすぎず、その日付と消防の見解を確認することは、県立図書館の虫を以ってしても至難の業でしょう。ただし、旅館の石碑と共に探索終了後に残る謎になりました。

8.見解

 結局のところ、設立も目的も火災にあった時期も何一つとして確証の得られないままに終わってしまった今回の探索。また何か進展があればと思うのですが、どうやら現在、おゆみ野ニュータウンは再び宅地造成が開始されたようで、近い将来この旅館も過去のものへとなってしまうかもしれません。それまでに、一つでも、何か謎が解決できればなと思っています。

9.最後に

 今回訪問した旅館「新川」は、京成電鉄千原線学園前駅から徒歩10分のところに位置します。

 探索に際し、特に大きく必要なものはありませんが、最低でも長袖長ズボン、携帯食料等を持ち、近隣住民の方の迷惑にならないように探索しましょう。また、探索は自己責任で行うようにしてください。万が一、事故等で負傷または死亡された場合でも当サイトは一切の責任を負いません。

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